新田の歴史散策(写真)


生 品 神 社



神社の赤い大鳥居と大きな楠木が目印です



結構高さがあります


境内にはいると赤い橋があります

二の鳥居から参道が始まります


ひっそりと静かな佇まいを見せる神社

社の手前にはご神木があります


生品神社の全景です

この境内で鏑矢祭が行われます

   
鏑   矢  祭
まずは体育館で基本練習を何度もします

「まっつぐ並べー!」茂木さんの声が飛びます

 
これは鶴翼(かくよく)のかまえ

長蛇の陣「エイ、エイ、オー」

 
衣装に着替えるのはみんな初めてです

なかなか衣装が決まっています

 
緊張しないように最後のリハーサルは外で

段々緊張してきます「出番はまだ?」


 
どう?決まってるでしょ!!

境内には大勢の見物客や報道陣が!!

 
社の前で茂木さんの祝詞(のりと)聞きます

さあ、いよいよ鏑矢を射ます

 
五月の空の下、鎌倉の方角に向けて「天誅(てんちゅう)!!」

 
反 町 館 跡
ひっそりとしたたたずまいの反町館跡のお堀端。1月4日になると、反町薬師への参拝客でたいへん賑わいます。

 
二 ツ 山 古 墳

一号墳


二号墳

   
石室の内部はこんなふうになっています

◆現地案内板の内容◆

群馬県指定史跡 ニツ山古墳
昭和23年11月2日指定
所在地 新田郡大字天良字新開発167-85乙
管理者 新田町

ニツ山古墳は、この地域に所在した古墳群中の一つで、南東に近接する二号墳と共に、前方後円墳である。その他にいくつかの円墳が見られたが、現在は残っていない。この古墳は、主軸を北西から南東にとり、全長74m、高さ6mで2段に構築され葺き石と周囲に堀跡がある。墳丘は、よく原型を保ち、裾部には二重の円筒埴輪列がめぐらされ、墳頂部からは形象埴輪が出土した。石室は明治 21年に発掘され、南南西に開口している横穴式石室である。奥行は約7m、高さ約1.8mから2.1m、天井は5枚の石積、奥壁は一枚石、両壁は切石積になっている。石室内出土品は刀剣類、馬具等があり東京国立博物館に保管されている。また墳丘部の発掘調査は、昭和23年慶応大学文学部によって行われ、次の様な埴輪配列が明らかになった。

1.円筒埴輪列が裾部に2列にめぐらされ、外側列は間隔80から90cm、内側列は大小の円筒埴輪が密接に並び内外の間隔は2mである。

2.石室入口両側に参道を挟むように円筒埴輪が存在した。

3.形象埴輪が多数発見され次の様な埋設状況が明確となった。
(イ)後円部円筒埴輪列の内側に馬12頭が一列に並び間に人物等が散在した。
(ロ)東側くびれ部には靱、翳、鞆、帽、等の器物が列立していた。
(ハ)西側くびれ部においては、人物、鳥、靱、翳が二列に存在した。
(ホ)前方および後円墳頂部にも家形の存在を認めた。

 以上のことから推察すると、築造年代は古墳文化が終末期に入ろうとする飛鳥時代、すなわち7世紀の始めと考えられている。またその規模から、ニツ山古墳群の中枢をなしていたものと思われる。この地方の古墳文化を知る上で重要であ
る。


群馬県教育委員会 新田町教育委員会


 
市  野  倉  市野倉は戦後に開発された新しい農村集落で、もとは旧陸軍の飛行場でした。旧新田町の地図を見ると、町の北部に、東西南北の方向にほぼ真っ直ぐ道路が走っている地域のなかで、一区画だけ道路が斜めにつけられている地区が見られます。碁盤の一部を長方形にくり抜いて、その長方形だけを少し回転させ、再び貼りつけたような格好になっている、ここが市野倉です。
 地区の東端に自動車部品の工場などがあり、他は畑が広がる地域です。ヤマトイモや飼料用の作物の畑がほとんどで、土壌の質が稲作には適さないためか田んぼは見当たりません。酪農や食肉用の大規模な牛舎も目立ちます。地区全体が斜めに傾いているため、市野倉地区内の道路は南北に走っているように見えても実際は南東から北西に抜け、東西の道は北東から南西方向に向かっています。
 生品のマツの森に1935(昭和10)年、陸軍の飛行場が建設されました。正式には陸軍熊谷飛行学校新田分教場といいました。『新田町誌』によれば、飛行場の建設予定地は「当時、生品村北東部で旧強戸村、藪塚本町に隣接する広範な平地林の一部」であり、4分の3が松林で、残りはナラなどの雑木林であったそうです。飛行場の建設により生品村北部山林の約6割が消えたそうです。飛行場の大きさは、東西約1850m、南北約1350mで、総面積は約249万㎡ありました。工事は2年間にわたっておこなわれ、1938(昭和13)年3月に最初の練習機が飛びました。『新田町誌』には「同飛行場に関する資料は軍事機密のため、何一つ残されていない。」とあります。唯一の資料として町民の方の提供による練習機の写真が掲載されていますが、陸軍九五式一型乙練習機という名の飛行機で、オレンジ色の機体から「赤とんぼ」と呼ばれていたそうです。生品飛行場は終戦間近の1945(昭和20)年の7月と8月に空襲を受けています。『新田町誌』には「昭和20年7月、飛行場爆撃がおこなわれ、格納庫を含む諸施設が壊滅した。」とあります。
 終戦後、飛行場跡地は農村集落として開拓されることになりました。これが現在の市野倉地区のもとになっています。1945(昭和20)年11月に閣議による大規模開拓事業実施方針によって、中島飛行機太田製作所内の離職者たちの失業対策として開拓の計画がもちあがりました。復員軍人や海外引揚者を中心に、地元や近隣の村々から入植者を募集し、各役場の推薦や抽選により入植者が決められたそうです。
 飛行場がなぜこのような角度で建設されたかは詳しくは分かりませんが、おそらくは風向きの関係でないでしょうか。このあたりは、赤城おろしの空っ風が強く吹き荒れる場所です。赤城おろしは北西風で、飛行機は向かい風の方向に離着陸をするのが普通のため、生品飛行場の滑走路も南東から北西に向かって造られていたのでしょう。
今の市野倉地区が周辺の区画から傾いた状態にあるのは、以上のような理由によると思われます。太田市の飛行場跡地(現太田市朝日町および大泉町いずみ、富士重工の大泉工場など)も市野倉と同じような角度で傾いています。


須 永 地 蔵
地域の方がいつもきれいに掃除をしているのか、祠(ほこら)の周囲がとてもきれいです


「須永地蔵尊」と書かれています。
手には鍬(クワ)を持っています。農民運動家であった須永好さんの生きざまがしのばれます。



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